レンブラント・ファン・レイン「放蕩息子の帰宅」

レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン「放蕩息子の帰宅」(1668〜1669年) 
Rembrandt Harmenszoon van Rijn"The Return of the Prodigal Son"
サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵

ある人に息子が二人いた。弟の方が父に財産を生前に分け与えるよう頼み、父はそれに応じた。弟は家を飛び出し、放蕩(ほうとう;浪費と贅沢)の限りをつくして財産を無駄遣いしてしまった。
弟は自分の行為を悔やみ、恥を忍んで父の元に帰る。すると弟を迎えた父は盛大に息子の帰宅を祝う。それを見た兄は父に不満を訴えた。

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』(ルカによる福音書15章31-32節)」


ルカによる福音書15章には、3つのたとえ話が記されている。
1つめは「見失った羊」のたとえ、2つめは「無くした銀貨」のたとえ、そして3つめは「放蕩息子」のたとえである。
いずれも、失ったものを得たときの喜びを語るエピソードであるが、当時においてはこれはファリサイ派の態度に対する反論と考えられる。ファリサイ派の人々は律法を厳格に守ろうとするあまり、守れない人々に対して蔑みの態度をとっていた。一方イエスはたとえ罪人(ここでは放蕩している)といえども救われるべきと考えていたから、これらのたとえ話によってその意義を主張したのである。

とはいえ、私はこのエピソードを読んだときはとても納得がいかなかった。どう考えても弟はお調子者であり、まじめな兄が馬鹿を見る話としか理解できなかったのである。

しかしながら、今わかるのはこの弟のような者こそ救いが必要なのだろうということだ。この兄とて損をしているわけではない。普通に生きていけるならそれはそれでよいことではないか。

人は誰でも後悔することのひとつくらいはあるだろう。その後悔を一生背負っていかなければならないとしたらどれほど苦しいことだろうか。もちろん殺人のように許されない罪もあるが、日々の暮らしの中で大なり小なり「こうすればよかった、あんなことするんじゃなかった」と思うことがある。そんな時、その後悔を二度としないようにしていくことで人は生きてゆけるのだと思う。

では、レンブラント自身はどんな思いでこの絵を描いたのだろうか。
一時は絶頂を極めたこの画家も、財産や家族を失っていく。この作品が制作されたのは1668年頃とされ、この年には息子のティトゥスが亡くなっている。妻、愛人、子供達のほとんどを失った画家はその翌年、1669年に世を去っている。

悔恨と救いを求める気持ち、それとちょっぴり自己憐憫。そんな感じがした。父親の大きな手と、親子を見守る3人の姿がレンブラントの希望を表しているように思える。

なお、絵はほぼ等身大である。この絵を間近に見たとき、父が息子を包む手の力強さと優しさがひしひしと感じられるに違いない。

The Return of the Prodigal Son
1668-69, oil on canvas,262 x 206 cm
The Hermitage at St. Petersburg.

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