(国立美術館の所蔵作品紹介ページへ)
著作権の都合上、画像は当該サイトで直接ご覧ください。

東山魁夷 「残照」(1947年)
(本画:東京国立近代美術館蔵
(リトグラフ:東山魁夷アートギャラリー

この風景を見て、あなたは何を思うだろう。描いた画家と全く同じではないものの、穏やかな気持ちと一種の感慨を覚えるに違いない。
遠くの山並み、傾いた日差しが作り出す色や影。それらの情報から人が受ける印象は多かれ少なかれ共通しているように思われる。

しかし、なぜ人はひとつの絵から似た印象を持つことができるのだろう。同じヒトだからと言えばそれもそうだが、その理由が知りたい。それが分かれば、人と人は分かり合えるのか、どうすればそうできるのかについてヒントが得られそうな気がする。

東山魁夷の絵には何か「思い」のようなものが感じられる。それは強く主張するものではなく、観る者に静かな共感を呼び起こすものとでも言おうか。自然の持つ美しさとあわせ、人の心とは何かについて考えさせられる。

さらに絵そのものが伝える情報に加え、その絵が描かれた背景などについて知ることができれば新たな思いを抱くことになるだろう。そこでこの絵の背景についても紹介しておきたい。

画家は昭和20年の春に軍に召集された。熊本に配属され、戦車への体当たり攻撃の演習の日々の中で、ある日訓練として熊本城へ走った時に肥後平野と阿蘇山を眺めた。画家はその風景を見て涙が落ちそうになるほど感動したという。

「なぜ、今日、私は涙が落ちそうになるほど感動したのだろう。なぜ、あんなにも空が遠く澄んで、連なる山並みが落ち着いた威厳に充ち、平野の緑は生き生きと輝き、森の樹々が充実した、たたずまいを示したのだろう。今まで旅から旅をしてきたのに、こんなにも美しい風景を見たであろうか。」(「風景との対話」、新潮選書、1967)

そして戦後。母と弟の相次ぐ逝去やさまざまな苦労の中で、画家は千葉県鹿野山へ登る。そこでの思いがこの絵となり、風景画家として立つ決心をさせた。

「人影のない草原に腰をおろして、刻々に変わってゆく光の影と綾を、寒さも忘れて眺めていると、私の胸の中にはいろいろな思いがわき上がってきた。喜びと悲しみを経た果てに見出した心の安らぎとでもいうべきか、この眺めは対象としての現実の風景というより、私の心の姿をそのまま映し出しているように見えた。」(日経ポケットギャラリー「東山魁夷」、1991)

この絵は昭和22年(1947年)の第三回日展で特選となり、政府買い上げとなった。

"残照",
1947,Japanese-style painting,151.6x212.2 cm
The National Museum of Modern Art, Tokyo.

「風景(前のページ)」へ


「想像空間」のホームへ
© 2003 hosizora.All rights reserved.